歴史の切断線 [戯言(歴史)]
以前書いた記事「○○年代論への疑義」において、「一桁めの数字がゼロの十年ごとに何もかもが刷新されていくというような荒唐無稽な語り口」に疑問を呈しました。
そして、歴史に大きな切断線を引くとしたら1970年よりも1973年の方がふさわしいのではないかとも指摘しました。
その大きな転換点となったと指摘したのが第1次オイルショックです。
ブレトン・ウッズ体制が終結した第2次ニクソン・ショック(1971年7月)の1年前の1970年7月から日本は景気後退期に入りました。
ただ、同年12月に底をついてから景気は上昇し「列島改造景気」と言われるほどに回復していました。
57ヶ月続いた「いざなぎ景気」は終わりましたが、高度成長が終焉したとはっきり断定できるものではありませんでした。
ところで今日、ネットで注文していた1973年初版の新書本が届きました。
黒川紀章の『都市学入門』(祥伝社)です。
この本、実は高校時代(70年代後半)に図書館で読んだことがあります。
故・黒川氏の著書の中で一番印象深かった本なのですが、どういう訳だか購入することなく今日に至りました。
最近、ちょっとした切っ掛けがあって、ぜひ手元に置いておきたいと思い、とうに絶版なったこの書をネットで購入した次第です。
さて、サブタイトルが「この東京、この列島を蘇生させる術」のこの本、大都市に人口が過度に集中することから生じる様々な危機に対して具体的な提言を行っています。
大都市圏で深刻な問題となっていた住宅問題、交通網の麻痺、環境汚染などに対して、現在の視点から見てもかなり鋭い解決策を提示しています。
でも、何だろう、オイルショックが起きた年に出版されたこの本からなんとなく漂う楽観的なムード…
ネットで注文する前の下調べで1973年発行の著書だと知っていましたから、余計に湧き上がってくる違和感…
奥付を見てみました。
「昭和48年8月25日 初版発行」
なるほどねえ!!!
第1次オイルショックの引き金となったのは、1973年10月6日に勃発した第四次中東戦争で、以後続いた中東諸国による原油価格の高騰・輸出量の制限が、先進諸国に大きな混乱をもたらしました。
8月後半発行と記されているということは、実際に発売されたのは8月前半か7月後半。
原稿が書きあがったのは遅くとも6月末と推測されます。
つまり、この年の前半は、まだ前年6月発表の日本列島改造論ブームの余韻が残っていて、まだまだ高度成長の夢を追いかけられる余地はあったということですね。
さて何が言いたいかというと、私が歴史の大きな切断線を引こうとしていた1973年は、10月の第四次中東戦争勃発の前と後とでは、時代に漂う空気とか共通感覚などに大きな違いがあったということです。
10月以降、物価は高騰し、省エネルギーが推奨され、多くの大型公共事業が凍結・縮小となるなど、その影響はただちに現れ始めました。
それまで「消費は美徳だ」と嘯いていたのに、倹約・節約が叫ばれる世の中になってしまいました。
当時中学生だった私は、田舎町の電話帳よりも数倍ぶ厚かった学習雑誌が、あっという間に薄っぺらくなったのを覚えています。
生活者としての実感としてはそうなのですが、いろいろ調べてみると、景気が悪化したことが数字上はっきりと現れてくるのは翌年から翌々年にかけてのようです。
ここでも「遅延」というのが生じているのですね。まあ、あくまでも各種統計上のことですが…
1995年も時代が大きく変わった節目の年であったと、よく指摘されます。
この1995年、は阪神・淡路大震災が1月、地下鉄サリン事件は3月と、二大転換点とされる出来事が新年度が始まる前の早い時期でありましたし、テレビを中心としたマスメディアのリアルタイムな速報性が高まっていたことも相まって、時代の切断線を引くのにあまり違和感はありません。
だからこそ、と言うべきなのか、比較すると、1973年に切断線を引くのは、その年の4分の3を占める期間のムードを考慮すると、なんとなく違和感を抱いてしまうのですよ。
そして、歴史に大きな切断線を引くとしたら1970年よりも1973年の方がふさわしいのではないかとも指摘しました。
その大きな転換点となったと指摘したのが第1次オイルショックです。
ブレトン・ウッズ体制が終結した第2次ニクソン・ショック(1971年7月)の1年前の1970年7月から日本は景気後退期に入りました。
ただ、同年12月に底をついてから景気は上昇し「列島改造景気」と言われるほどに回復していました。
57ヶ月続いた「いざなぎ景気」は終わりましたが、高度成長が終焉したとはっきり断定できるものではありませんでした。
ところで今日、ネットで注文していた1973年初版の新書本が届きました。
黒川紀章の『都市学入門』(祥伝社)です。
この本、実は高校時代(70年代後半)に図書館で読んだことがあります。
故・黒川氏の著書の中で一番印象深かった本なのですが、どういう訳だか購入することなく今日に至りました。
最近、ちょっとした切っ掛けがあって、ぜひ手元に置いておきたいと思い、とうに絶版なったこの書をネットで購入した次第です。
さて、サブタイトルが「この東京、この列島を蘇生させる術」のこの本、大都市に人口が過度に集中することから生じる様々な危機に対して具体的な提言を行っています。
大都市圏で深刻な問題となっていた住宅問題、交通網の麻痺、環境汚染などに対して、現在の視点から見てもかなり鋭い解決策を提示しています。
でも、何だろう、オイルショックが起きた年に出版されたこの本からなんとなく漂う楽観的なムード…
ネットで注文する前の下調べで1973年発行の著書だと知っていましたから、余計に湧き上がってくる違和感…
奥付を見てみました。
「昭和48年8月25日 初版発行」
なるほどねえ!!!
第1次オイルショックの引き金となったのは、1973年10月6日に勃発した第四次中東戦争で、以後続いた中東諸国による原油価格の高騰・輸出量の制限が、先進諸国に大きな混乱をもたらしました。
8月後半発行と記されているということは、実際に発売されたのは8月前半か7月後半。
原稿が書きあがったのは遅くとも6月末と推測されます。
つまり、この年の前半は、まだ前年6月発表の日本列島改造論ブームの余韻が残っていて、まだまだ高度成長の夢を追いかけられる余地はあったということですね。
さて何が言いたいかというと、私が歴史の大きな切断線を引こうとしていた1973年は、10月の第四次中東戦争勃発の前と後とでは、時代に漂う空気とか共通感覚などに大きな違いがあったということです。
10月以降、物価は高騰し、省エネルギーが推奨され、多くの大型公共事業が凍結・縮小となるなど、その影響はただちに現れ始めました。
それまで「消費は美徳だ」と嘯いていたのに、倹約・節約が叫ばれる世の中になってしまいました。
当時中学生だった私は、田舎町の電話帳よりも数倍ぶ厚かった学習雑誌が、あっという間に薄っぺらくなったのを覚えています。
生活者としての実感としてはそうなのですが、いろいろ調べてみると、景気が悪化したことが数字上はっきりと現れてくるのは翌年から翌々年にかけてのようです。
ここでも「遅延」というのが生じているのですね。まあ、あくまでも各種統計上のことですが…
1995年も時代が大きく変わった節目の年であったと、よく指摘されます。
この1995年、は阪神・淡路大震災が1月、地下鉄サリン事件は3月と、二大転換点とされる出来事が新年度が始まる前の早い時期でありましたし、テレビを中心としたマスメディアのリアルタイムな速報性が高まっていたことも相まって、時代の切断線を引くのにあまり違和感はありません。
だからこそ、と言うべきなのか、比較すると、1973年に切断線を引くのは、その年の4分の3を占める期間のムードを考慮すると、なんとなく違和感を抱いてしまうのですよ。
「唐入り」についての私見 [戯言(歴史)]
某SNSの投稿で充分説明できなかったことを、この場を借りて補足説明します。
発端は、島津・大友・立花・小西・小早川など西国の武将・大名を主人公とした大河ドラマが何故作られないのかという問いかけ。
これに対する私の答え:「「唐入り」で武功をあげた西国の武将を主役とするのはNHK的にNGだから。」
つい最近も、第二次世界大戦終了時点でまだ存在しない国を日本が「侵略」したと生放送で局アナが発言するほど、朝鮮半島に対するNHKの「忖度」というのは目に余るものがあります。
まあ、それはともかく、文禄と慶長の二度の「唐入り」の大きな違いの一つとして私が指摘したいのは、「小早川隆景」の存在・不在の違い。
文禄の役では、小西行長の停戦合意以降、李舜臣率いる水軍に制海権を握られ、戦局が不利になった西国武将たち率いる連合軍。
漢城(今のソウル)を死守すべきか否かで意見が大きく分かれたのを、「攻撃する振りして撤退」と進言したしたのが、病身の隆景。
その後の撤退戦において、乱れがちな統率をなんとか堅持して、本国へと帰還させた智将ぶりは、評価されてしかるべきでしょう。
さて、慶長の役。
まず、文禄の役で朝鮮半島を統治することのリスクの大きさ・コストの高さの身に染みて知った西国の諸将たち。
折角、秀吉の天下統一により平和が戻り「豊かな社会」が実現できるかと思いきや、不慣れな海外戦線に駆り出され、領地は荒廃。
初めからなんとなく漂う厭戦モード。
この戦の総大将は隆景の養子・小早川秀秋。
なんたる皮肉なめぐり合わせ。
隆景はと言えば、参戦することなく開戦の年(1592年)6月に死を迎えます。
黒田官兵衛が軍監として秀秋らを補佐したとは言え、大局に立って戦況を判断し的確に行動に移せる智将・小早川隆景の不在。
嗚呼、この「大いなる不在」よ…
注記:基本、過去の戦争、それも数世紀も前もの戦役を、現代の倫理観でのみ評価してはならないと考えております。
発端は、島津・大友・立花・小西・小早川など西国の武将・大名を主人公とした大河ドラマが何故作られないのかという問いかけ。
これに対する私の答え:「「唐入り」で武功をあげた西国の武将を主役とするのはNHK的にNGだから。」
つい最近も、第二次世界大戦終了時点でまだ存在しない国を日本が「侵略」したと生放送で局アナが発言するほど、朝鮮半島に対するNHKの「忖度」というのは目に余るものがあります。
まあ、それはともかく、文禄と慶長の二度の「唐入り」の大きな違いの一つとして私が指摘したいのは、「小早川隆景」の存在・不在の違い。
文禄の役では、小西行長の停戦合意以降、李舜臣率いる水軍に制海権を握られ、戦局が不利になった西国武将たち率いる連合軍。
漢城(今のソウル)を死守すべきか否かで意見が大きく分かれたのを、「攻撃する振りして撤退」と進言したしたのが、病身の隆景。
その後の撤退戦において、乱れがちな統率をなんとか堅持して、本国へと帰還させた智将ぶりは、評価されてしかるべきでしょう。
さて、慶長の役。
まず、文禄の役で朝鮮半島を統治することのリスクの大きさ・コストの高さの身に染みて知った西国の諸将たち。
折角、秀吉の天下統一により平和が戻り「豊かな社会」が実現できるかと思いきや、不慣れな海外戦線に駆り出され、領地は荒廃。
初めからなんとなく漂う厭戦モード。
この戦の総大将は隆景の養子・小早川秀秋。
なんたる皮肉なめぐり合わせ。
隆景はと言えば、参戦することなく開戦の年(1592年)6月に死を迎えます。
黒田官兵衛が軍監として秀秋らを補佐したとは言え、大局に立って戦況を判断し的確に行動に移せる智将・小早川隆景の不在。
嗚呼、この「大いなる不在」よ…
注記:基本、過去の戦争、それも数世紀も前もの戦役を、現代の倫理観でのみ評価してはならないと考えております。